オルセー美術館展
先日上野の東京都美術館で開催されているオルセー美術館展に行ってきました。展示作品数は140点で、分類と主たる作品は以下の通りです。
I 親密な時間
ドガ:テレーズ・ドガ
ルノワール:ジュリー・マネ
ラトゥール:自画像
II 特別な場所
ミレー:グレヴィルの教会
マネ:ブーローニュ港の月光
モネ:ルーアン大聖堂
ルドン:ベイルルバードの道
III はるか彼方へ
ボナール:水の戯れ、旅
ゴッホ:アルルのゴッホの寝室
セザンヌ:サント=ヴィクトワール山
ゴーガン:黄色いキリストのある自画像
*このブロックには陶器も展示されている
IV 芸術家の生活
ラトゥール:バティニョールのアトリエ
ルノワール:バジールの肖像
マネ:すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ
ドガ:エドゥアール・マネの肖像
ドニ:ドガとモデル
V 幻想の世界へ
モロー:ガラテア
ルドン:2つの球体の間に座る男
ガラ:未来の宗教のための神殿
ラコンブ:ベッドの木枠
ジャン・カリエス:カエルもどき
この展示会で、好きな作品、あまり好きでない作品、印象に残るもの、残らないものなどいろいろとあったのですが、個人的に、一点一点の絵画というよりも全体の感想として強く心に感じたことが一つありました。
それは、印象派の作品の中に多い「水」と「光」についてです。
印象派の絵画を多く見ることで、『方丈記』の「行く河の流れは絶えずしてまたもとの水にあらず」という言葉が、深みをもって迫ってきたのです。これまでは「もとの水にあらず」に重点をおいて考え、水を自分の身に置き換えて「なぜ人は死ぬのか」と、無常の世を、そして人の生のはかなさを歎いていたわけですが、そこに「河」があってそれは変わらないという視点に欠けていたのです。水が流れるのは、そこに「河」があるからなのです。もちろん、自分の死に対する漠然とした不安や恐怖はなくなることがありません。とりわけ自分に残された時間がどれ程あるのかと考えると、生をあせる気持ちが私の中で膨らんで、却って身動きがとれなくなってしまい、悪循環を生み出すこともしばしばあります。しかし、厳然とした事実として「河」はここにあるのです。「現在」を生きる私の目の前に。目の前というよりも、むしろ私自身が「河」であり、「河」が私といった方がいいかもしれません。「河」と私との合一という観念をもつことで、個体の死は最終到達点ではなくなります。私の生は脈々とつながっていき、無数の「現在」を重ねていき、この宇宙船地球号の生命が続く限り、「私」は「河」として生き続けることになるのです。
森鴎外は『青年』の中で以下のように書いています。
─現在は過去と未来との間に画した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。
そこで己は何をしている。
線とは観念的なもので、幅がありません。現在という幅のない「線上」で懸命に私たちは生きているのです。その線を捉えようとしたのが印象派の作品なのです。「一瞬」とか「刹那」よりも短い「今」を捉えようとしたわけです。ですから、その作品には過去も未来もありません。その線上で自分が見たり、感じたりしたものを表現しているのです。
かつて、生とは螺旋であり、循環的なものであると考えたこともありましたが、印象派の画家たちの描く「水」や「光」を見て、このようなことを考えたのでした。
また、時間があれば、もう一度観に行きたいと思っています。
個々の作品に関して述べると、「ルーアン大聖堂」がやはり私の中で最も印象に残り、またずっと眺めていたい作品でした。そして、様々な時間のルーアン大聖堂を描いた作品を観たいと思いました。

I 親密な時間
ドガ:テレーズ・ドガ
ルノワール:ジュリー・マネ
ラトゥール:自画像
II 特別な場所
ミレー:グレヴィルの教会
マネ:ブーローニュ港の月光
モネ:ルーアン大聖堂
ルドン:ベイルルバードの道
III はるか彼方へ
ボナール:水の戯れ、旅
ゴッホ:アルルのゴッホの寝室
セザンヌ:サント=ヴィクトワール山
ゴーガン:黄色いキリストのある自画像
*このブロックには陶器も展示されている
IV 芸術家の生活
ラトゥール:バティニョールのアトリエ
ルノワール:バジールの肖像
マネ:すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ
ドガ:エドゥアール・マネの肖像
ドニ:ドガとモデル
V 幻想の世界へ
モロー:ガラテア
ルドン:2つの球体の間に座る男
ガラ:未来の宗教のための神殿
ラコンブ:ベッドの木枠
ジャン・カリエス:カエルもどき
この展示会で、好きな作品、あまり好きでない作品、印象に残るもの、残らないものなどいろいろとあったのですが、個人的に、一点一点の絵画というよりも全体の感想として強く心に感じたことが一つありました。
それは、印象派の作品の中に多い「水」と「光」についてです。
印象派の絵画を多く見ることで、『方丈記』の「行く河の流れは絶えずしてまたもとの水にあらず」という言葉が、深みをもって迫ってきたのです。これまでは「もとの水にあらず」に重点をおいて考え、水を自分の身に置き換えて「なぜ人は死ぬのか」と、無常の世を、そして人の生のはかなさを歎いていたわけですが、そこに「河」があってそれは変わらないという視点に欠けていたのです。水が流れるのは、そこに「河」があるからなのです。もちろん、自分の死に対する漠然とした不安や恐怖はなくなることがありません。とりわけ自分に残された時間がどれ程あるのかと考えると、生をあせる気持ちが私の中で膨らんで、却って身動きがとれなくなってしまい、悪循環を生み出すこともしばしばあります。しかし、厳然とした事実として「河」はここにあるのです。「現在」を生きる私の目の前に。目の前というよりも、むしろ私自身が「河」であり、「河」が私といった方がいいかもしれません。「河」と私との合一という観念をもつことで、個体の死は最終到達点ではなくなります。私の生は脈々とつながっていき、無数の「現在」を重ねていき、この宇宙船地球号の生命が続く限り、「私」は「河」として生き続けることになるのです。
森鴎外は『青年』の中で以下のように書いています。
─現在は過去と未来との間に画した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。
そこで己は何をしている。
線とは観念的なもので、幅がありません。現在という幅のない「線上」で懸命に私たちは生きているのです。その線を捉えようとしたのが印象派の作品なのです。「一瞬」とか「刹那」よりも短い「今」を捉えようとしたわけです。ですから、その作品には過去も未来もありません。その線上で自分が見たり、感じたりしたものを表現しているのです。
かつて、生とは螺旋であり、循環的なものであると考えたこともありましたが、印象派の画家たちの描く「水」や「光」を見て、このようなことを考えたのでした。
また、時間があれば、もう一度観に行きたいと思っています。
個々の作品に関して述べると、「ルーアン大聖堂」がやはり私の中で最も印象に残り、またずっと眺めていたい作品でした。そして、様々な時間のルーアン大聖堂を描いた作品を観たいと思いました。

テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術