NHKラジオ 英語で読む村上春樹
最近またよく話題になる村上春樹を英語で読むという講座がNHKラジオで始まると風の噂で聞き、テキストを購入し、第1回目の放送を聴いてみました。
ネットでテキストを購入しようと思っていたら、Amazonでも、そして楽天でもまさかの売り切れ。人気があるんですね。今回は、灯台下暗しと言いますか、近所の本屋に平積みになっていたのを購入しましたが、ネットで予約購入をしておいた方がよさそうですね。
NHK ラジオ 英語で読む村上春樹 2013年 05月号 [雑誌]
さて、このラジオ番組の講師は沼野充義先生、コメンテーターのような役割をしていらっしゃるのがMatthew Chozickさんで、扱う小説は前半が『象の消滅』、後半は『かえるくん、東京を救う』です。『象の消滅』は『パン屋再襲撃』の中に収録されている作品で、『かえるくん、東京を救う』は『神の子どもたちはみな踊る』に収録されている作品です。




この番組の公式サイトはこちら。
この講座自体、単に英文を聴いて、語句などを解説してくれて、日本語訳を聴くというものではなく、翻訳と原典の比較をしながら、翻訳の限界や、文化の違いなどをどう表現していくかなどを説明してくれるものだったので、何とか三つ子の魂何とやらで3日坊主になる、ということもなさそうです。さらに、上記のサイトのマイ語学に登録をしておくと過去1週間分の放送をいつでも聴けるというのも嬉しい限りです。
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さて、村上春樹というと前述のように、ノーベル賞候補だの、新刊だのと最近話題が多いように感じます。


最近出たばかりの本の予約もミリオンに迫る数だったとか。『1Q84』の単行本も販売部数は300万を超えたと言われていました。












『1Q84』はざっと読んだだけですから、ここでそれについてどうこう語ることはできません。ただ、『ノルウェイの森』以前の本を、リアルタイムではないにせよ、かなり近い時に読んでいる身としては、昔の魔法の世界のような(もっと俗っぽく言ってしまえばディズニーワールドのような)村上春樹ワールドはもう今はなくなってしまったと感じます。自分のいる(時として不思議な、時として日常的な)世界を、客観的に冷静に淡々と語っていた「僕」はある時代の人間ではあったのですが、時空を超えた不思議な「僕」でした。しかし、最近の「僕」はちょうど著者の村上春樹自身と同じように「社会派」になってしまったような印象を受けます。
自分の読書記録の中で、個人的に村上作品の中でも好きな『回転木馬のデッドヒート』から一部引用をしていたので、それを掲載しておきます。
「人々の話は多くの使いみちのないまま僕の中につもる。それはどこにもいかない。夜の雪のように、ただ静かにつもっていくのだ。これは他人の話を聞くことを好む人々の多くに共通する苦しみである。カソリックの教誨師は人々の告白を天上と言う大組織にひきわたすことができるが、我々にはそのような便利な相手もいない。自分自身の中に抱え込んで生きていくしか道がないのである。
カーソン・マッカラーズの小説の中にもの静かな唖の青年が登場する。彼は誰が何を話しても親切に耳を傾け、あるときは同情し、あるときはともに喜ぶ。人々は引き寄せられたように彼のまわりに集まり、様々な告白や打ちあけ話をする。しかし最後に青年は自らの命を絶つ。そして人々は自分たちがあらゆるものを彼に押しつけ、誰一人として彼の気持ちを汲んでやらなかったことに思いあたるのだ。
とはいってももちろん僕は自分の姿をその唖の青年にオーバーラップさせているわけではない。僕だって誰かに自分の話をすることはあるし、それに文章だって書いている。しかしそれにもかかわらず、おりというものは身体に確実にたまっていくものなのである。僕が言いたいのはそういうことだ。
(中略)
自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少くとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。


村上春樹がかつて人の話に耳を傾けることでゆっくり溜まっていった「澱」は、もうすでに使い果たされてしまったように感じられます。『1973年のピンボール』、『風の歌を聴け』、『羊をめぐる冒険』の時代と、ノーベル賞候補者と騒がれている今とでは、村上春樹自身が変わってしまい、そして、周囲の人も変わってしまったのです。そこにいて、静かに自分の話を受け止めてくれる「僕」はもういなくなってしまったのです。
村上春樹がノーベル賞を受賞するかどうかはわかりません。しかし、彼の良さは、大江健三郎とは異なるところにあったはずなのです。にもかかわらず、大江健三郎的になろうとする、あるいはならせようとする、村上春樹自身の、そして村上春樹の周囲の試みは、村上ワールドを破壊してしまっているような気がしてならないのです。「僕」は現世の栄光を儚いものと知っている人なのです。
ネットでテキストを購入しようと思っていたら、Amazonでも、そして楽天でもまさかの売り切れ。人気があるんですね。今回は、灯台下暗しと言いますか、近所の本屋に平積みになっていたのを購入しましたが、ネットで予約購入をしておいた方がよさそうですね。
NHK ラジオ 英語で読む村上春樹 2013年 05月号 [雑誌]
さて、このラジオ番組の講師は沼野充義先生、コメンテーターのような役割をしていらっしゃるのがMatthew Chozickさんで、扱う小説は前半が『象の消滅』、後半は『かえるくん、東京を救う』です。『象の消滅』は『パン屋再襲撃』の中に収録されている作品で、『かえるくん、東京を救う』は『神の子どもたちはみな踊る』に収録されている作品です。
この番組の公式サイトはこちら。
この講座自体、単に英文を聴いて、語句などを解説してくれて、日本語訳を聴くというものではなく、翻訳と原典の比較をしながら、翻訳の限界や、文化の違いなどをどう表現していくかなどを説明してくれるものだったので、何とか三つ子の魂何とやらで3日坊主になる、ということもなさそうです。さらに、上記のサイトのマイ語学に登録をしておくと過去1週間分の放送をいつでも聴けるというのも嬉しい限りです。
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さて、村上春樹というと前述のように、ノーベル賞候補だの、新刊だのと最近話題が多いように感じます。
最近出たばかりの本の予約もミリオンに迫る数だったとか。『1Q84』の単行本も販売部数は300万を超えたと言われていました。
『1Q84』はざっと読んだだけですから、ここでそれについてどうこう語ることはできません。ただ、『ノルウェイの森』以前の本を、リアルタイムではないにせよ、かなり近い時に読んでいる身としては、昔の魔法の世界のような(もっと俗っぽく言ってしまえばディズニーワールドのような)村上春樹ワールドはもう今はなくなってしまったと感じます。自分のいる(時として不思議な、時として日常的な)世界を、客観的に冷静に淡々と語っていた「僕」はある時代の人間ではあったのですが、時空を超えた不思議な「僕」でした。しかし、最近の「僕」はちょうど著者の村上春樹自身と同じように「社会派」になってしまったような印象を受けます。
自分の読書記録の中で、個人的に村上作品の中でも好きな『回転木馬のデッドヒート』から一部引用をしていたので、それを掲載しておきます。
「人々の話は多くの使いみちのないまま僕の中につもる。それはどこにもいかない。夜の雪のように、ただ静かにつもっていくのだ。これは他人の話を聞くことを好む人々の多くに共通する苦しみである。カソリックの教誨師は人々の告白を天上と言う大組織にひきわたすことができるが、我々にはそのような便利な相手もいない。自分自身の中に抱え込んで生きていくしか道がないのである。
カーソン・マッカラーズの小説の中にもの静かな唖の青年が登場する。彼は誰が何を話しても親切に耳を傾け、あるときは同情し、あるときはともに喜ぶ。人々は引き寄せられたように彼のまわりに集まり、様々な告白や打ちあけ話をする。しかし最後に青年は自らの命を絶つ。そして人々は自分たちがあらゆるものを彼に押しつけ、誰一人として彼の気持ちを汲んでやらなかったことに思いあたるのだ。
とはいってももちろん僕は自分の姿をその唖の青年にオーバーラップさせているわけではない。僕だって誰かに自分の話をすることはあるし、それに文章だって書いている。しかしそれにもかかわらず、おりというものは身体に確実にたまっていくものなのである。僕が言いたいのはそういうことだ。
(中略)
自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少くとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。
村上春樹がかつて人の話に耳を傾けることでゆっくり溜まっていった「澱」は、もうすでに使い果たされてしまったように感じられます。『1973年のピンボール』、『風の歌を聴け』、『羊をめぐる冒険』の時代と、ノーベル賞候補者と騒がれている今とでは、村上春樹自身が変わってしまい、そして、周囲の人も変わってしまったのです。そこにいて、静かに自分の話を受け止めてくれる「僕」はもういなくなってしまったのです。
村上春樹がノーベル賞を受賞するかどうかはわかりません。しかし、彼の良さは、大江健三郎とは異なるところにあったはずなのです。にもかかわらず、大江健三郎的になろうとする、あるいはならせようとする、村上春樹自身の、そして村上春樹の周囲の試みは、村上ワールドを破壊してしまっているような気がしてならないのです。「僕」は現世の栄光を儚いものと知っている人なのです。
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