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『原発ホワイトアウト』



霞ヶ関に勤務する官僚が(もちろん匿名で)書いた小説。小説の体を装っているが、フィクション部分は少なく、告発本と言ってもよいだろう。

東日本大震災に端を発する福島の第一原発の事故、放射能汚染の実態等の隠蔽と原発再稼働に向けた官僚と政治家と大企業の思惑と陰謀。私たち国民の生命を誰も守りはしないこの国のシステム。公務員(キャリア)は自らを「公僕」などと思ってはいない。

反体制の連中は消されていく。政敵は社会的に抹殺されていく。これはどこかの社会主義国や独裁政権下で行われている私たちに無関係の話ではなく、まさに日本で行われていることなのだ。

これで特定秘密保護法ができたら、日本はどうなってしまうのだ。この法律を作って利を得るのは、政治家ではなく官僚である。政治家たちは数年単位で変わっていく可能性があるからだ。とすると、この法案を通したいのは「官僚」なのだ。東大法学部卒のプライドしかないエリート官僚。政治家、マスコミを操作することで、国民を意のままに操り、日本全体を掌握している(と思い込んでいる)。

そんな彼らの思い通りにさせない方法はひとつしかない。

世論。

原発は人間の生命を、環境を脅かすものなのだから、不要。
特定秘密保護法は、何を秘密として特定するかもわからぬ正体不明の怪物なので、不要。そもそも「国家機密」というものは現段階でも存在しており、それ以上に何を「秘密」にしたいのか。

官僚の社会的偏差値は低い。彼らは「個人」的偏差値だけを拠り所に生きている。だから、世論で彼らを圧倒するしかない。彼らは「公僕」であり、その道を自ら選んだのだから、文句は言えまい。

日本を動かすシステムの真実を知りたい方にオススメ。




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テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

NHKラジオ 英語で読む村上春樹

最近またよく話題になる村上春樹を英語で読むという講座がNHKラジオで始まると風の噂で聞き、テキストを購入し、第1回目の放送を聴いてみました。

ネットでテキストを購入しようと思っていたら、Amazonでも、そして楽天でもまさかの売り切れ。人気があるんですね。今回は、灯台下暗しと言いますか、近所の本屋に平積みになっていたのを購入しましたが、ネットで予約購入をしておいた方がよさそうですね。

NHK ラジオ 英語で読む村上春樹 2013年 05月号 [雑誌]

さて、このラジオ番組の講師は沼野充義先生、コメンテーターのような役割をしていらっしゃるのがMatthew Chozickさんで、扱う小説は前半が『象の消滅』、後半は『かえるくん、東京を救う』です。『象の消滅』は『パン屋再襲撃』の中に収録されている作品で、『かえるくん、東京を救う』は『神の子どもたちはみな踊る』に収録されている作品です。



この番組の公式サイトはこちら

この講座自体、単に英文を聴いて、語句などを解説してくれて、日本語訳を聴くというものではなく、翻訳と原典の比較をしながら、翻訳の限界や、文化の違いなどをどう表現していくかなどを説明してくれるものだったので、何とか三つ子の魂何とやらで3日坊主になる、ということもなさそうです。さらに、上記のサイトのマイ語学に登録をしておくと過去1週間分の放送をいつでも聴けるというのも嬉しい限りです。

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さて、村上春樹というと前述のように、ノーベル賞候補だの、新刊だのと最近話題が多いように感じます。



最近出たばかりの本の予約もミリオンに迫る数だったとか。『1Q84』の単行本も販売部数は300万を超えたと言われていました。



『1Q84』はざっと読んだだけですから、ここでそれについてどうこう語ることはできません。ただ、『ノルウェイの森』以前の本を、リアルタイムではないにせよ、かなり近い時に読んでいる身としては、昔の魔法の世界のような(もっと俗っぽく言ってしまえばディズニーワールドのような)村上春樹ワールドはもう今はなくなってしまったと感じます。自分のいる(時として不思議な、時として日常的な)世界を、客観的に冷静に淡々と語っていた「僕」はある時代の人間ではあったのですが、時空を超えた不思議な「僕」でした。しかし、最近の「僕」はちょうど著者の村上春樹自身と同じように「社会派」になってしまったような印象を受けます。

自分の読書記録の中で、個人的に村上作品の中でも好きな『回転木馬のデッドヒート』から一部引用をしていたので、それを掲載しておきます。


「人々の話は多くの使いみちのないまま僕の中につもる。それはどこにもいかない。夜の雪のように、ただ静かにつもっていくのだ。これは他人の話を聞くことを好む人々の多くに共通する苦しみである。カソリックの教誨師は人々の告白を天上と言う大組織にひきわたすことができるが、我々にはそのような便利な相手もいない。自分自身の中に抱え込んで生きていくしか道がないのである。
 カーソン・マッカラーズの小説の中にもの静かな唖の青年が登場する。彼は誰が何を話しても親切に耳を傾け、あるときは同情し、あるときはともに喜ぶ。人々は引き寄せられたように彼のまわりに集まり、様々な告白や打ちあけ話をする。しかし最後に青年は自らの命を絶つ。そして人々は自分たちがあらゆるものを彼に押しつけ、誰一人として彼の気持ちを汲んでやらなかったことに思いあたるのだ。
 とはいってももちろん僕は自分の姿をその唖の青年にオーバーラップさせているわけではない。僕だって誰かに自分の話をすることはあるし、それに文章だって書いている。しかしそれにもかかわらず、おりというものは身体に確実にたまっていくものなのである。僕が言いたいのはそういうことだ。
  (中略)
 自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少くとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。



村上春樹がかつて人の話に耳を傾けることでゆっくり溜まっていった「澱」は、もうすでに使い果たされてしまったように感じられます。『1973年のピンボール』、『風の歌を聴け』、『羊をめぐる冒険』の時代と、ノーベル賞候補者と騒がれている今とでは、村上春樹自身が変わってしまい、そして、周囲の人も変わってしまったのです。そこにいて、静かに自分の話を受け止めてくれる「僕」はもういなくなってしまったのです。

村上春樹がノーベル賞を受賞するかどうかはわかりません。しかし、彼の良さは、大江健三郎とは異なるところにあったはずなのです。にもかかわらず、大江健三郎的になろうとする、あるいはならせようとする、村上春樹自身の、そして村上春樹の周囲の試みは、村上ワールドを破壊してしまっているような気がしてならないのです。「僕」は現世の栄光を儚いものと知っている人なのです。






テーマ : ひとりごと
ジャンル : 日記

『素粒子はおもしろい』

益川敏英著。岩波ジュニア新書。

ノーベル賞受賞した益川先生の本が、ジュニアから出るとなれば、文系の私にだってわかるだろうと期待もするだろう。そして、結果は無惨な敗退。この本をあっさりと理解できる中高生がいるならば、是非弟子入りしたい気持ちである。

素粒子を少しでも勉強したことのある人ならば、わかるのかもしれない。しかし、素粒子の世界を初めて覗いてみようと思う人には、見知らぬ外国語で書かれた書物とさして差はない。到底何らかの「辞書」なしには読めない代物だ。本書の中身はおよそ150ページ。そして、その中にはコラムが相当の紙面を割いている(33ページ)。つまり素粒子について説明をしている紙面は120ページほどで、字がスカスカときた日には、中身が薄いか、専門用語を使って簡潔すぎる程簡潔に説明してあるかどちらか、もしくは両方としか考えられない。

そんなものがなぜジュニア新書なのか。おそらく、ブルーバックスには益川先生の本がすでにあるので、岩波としても是非出版したかった。しかし、岩波新書では出せないと思ったのだろう(おそらくコラムなどを読んでいただければおわかりと思う)。だから、ジュニア向けに出すので簡単にご説明願えますかという岩波側の要望に応えて、益川先生が口頭で伝えた内容を編集者がまとめて、ご本人がそれに目を通して、GOサイン、というあたりの推測は当たらずとも遠からずだろう。

ということで、「素粒子はおもしろい」かもしれないが、『素粒子はおもしろい』はおもしろくない。おあとがよろしいようで。

テーマ : 読んだ本。
ジャンル : 本・雑誌

『荒れ野の40年』

26年前の5月8日にドイツのヴァイツゼッカー大統領がドイツ連邦議会で追悼演説を行いました。その演説を久しぶりに読み返してみました。再読の楽しみは、以前は心に残らなかった文言が、自分の経験などと共鳴して新たなる意味を帯びてくることでしょうか。

以下は引用です。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けなければなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。



日本が近隣諸国に対してしてきたことを、事実ではないとか、謝罪する必要はない、と主張するつもりは私にはありません。悪いことは悪いこととして認め、謝罪するのは当然という立場をとっています。しかし、そういうことを言いながら、どこか過去の出来事に関しては他人事という気がしており、ヴァイツゼッカーが演説の中で使うerinnerungという言葉とはほど遠いところに、あたかも傍観者のように、もっと率直に言うならばぶつぶつ文句を言いながら眺めている極めて質の悪い傍観者のようにふるまっていました。

若い人にしてみれば、なぜ自分が生まれる前の過去を背負わなければいけないのか、と思うことでしょう。そして、日本が(もしくは自分たちが)謝罪する歴史などはないと考えに傾倒していく人が多いのもわからなくはありません。私自身も、過去に責任を負わなければいけないと考える根拠については長いこと考えてきたのですが、全く答えは出ませんでした。しかし、その疑問に対する答えのひとつをヴァイツゼッカーが提示しているのです。つまり同じ過去を共有することで、ひとつにつながっていることを確認できるnationなのだから、過去にも、現在にも、そして未来にも責任を持たねばならないと。

福島をフクシマに変えてしまった歴史のただ中にいる私たちはヒロシマ、ナガサキの凄惨な過去を蔑ろにしてしまったということなのでしょう。もし日本がこれから先も存在するとして、後世の人々は、安全で安心な生活という人間にとって基本的なものを、「カネ」や「ちっぽけな繁栄」、「安楽な生活」と引き換えにしてしまった愚かな時代と評価することでしょう。本当の愛国心を持っている方ならば、むやみに政権批判をしたり、原発を推進するようなことはせず、私たちと過去を共有し、私たちが生み出してしまった過去に対する責任を共有する、まだ見ぬ人々のために、全力を尽くすことと思います。


ヴァイツゼッカーの演説の一部を引用して結びに替えたいと思います。

 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにもまいりません。しかし、過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。




テーマ : 読書記録
ジャンル : 小説・文学

読書録20110207

『ペニー・イン・ザ・アーケード』スティーヴン・ミルハウザー著。

アメリカではピンチョンと並ぶ人かなという噂をどこからか聞きつけ、読んだ1冊。どこかで読んだことのあるような、どこか懐かしいような…と惹きつけられそうになる瞬間、これはミルハウザーの腕前なのか、訳者(柴田元幸さん)の腕前なのかわからなくなる。翻訳される文学作品は、その立場がとても難しい。ミルハウザーの表現が美しいのかどうかとか、実はわからない。原文を読んでも多分わからないだろうな。その点、SFなどのプロット勝負はいいのかもしれない。


『職業としての学問』マックス・ウェーバー著。

どの立場になって読むかということは、どんな本であっても大事なことで、だからこそ古典文学が古典文学として不動の地位を築くことになるわけなのだけれど、この本も立場によって面白みが異なってくる。第一次世界大戦の暗雲がドイツを覆いつくしている中、研究者たるものに過剰な期待をかけてはいけない。彼らは扇動者ではないのだから。ということなのだけれど、自らの立ち位置を示さずして、何かを語ることができるのだろうか。

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